ワーママイズム

小学6年生と4年生の子どもを持つワーママの生活

父の死2-④ 肺がん最後の一ヶ月と自宅での看取り 体験談

前回の記事のつづきです。

亡くなる約1週間前

7/23(日)に、お医者さまから、余命は2週間からもって1ヶ月と言われていました。

それから2週間以上が経過し、時の流れに心は全く追いついていませんでした。

もちろん、余命宣告よりずっと長く生きられる場合もあると思います。

でも、8/10(木)、また1段階病状が進行したように感じ、仕事は休ませてもらうことにしました。

もう、少しでも父と離れたくない思いでした。

8/8の朝体調が良く、数分ですが庭に家族で出られたことが嘘のようです。

まだ、食事は好きなものを食べられていましたが、苦しい時間が増えていきました。

8/11(金)、私の夫も早めに仕事を切り上げて来てくれました。夫は私の父を実の父のように慕っていました。

いただきもののスイカがあったので、皆で夏の思い出をつくろうと、スイカ割りと花火を庭でやることになりました。

弟と、私の夫が集うといつも楽しいイベントを勢いでやることになります。

父はもう外には出られませんが、姉、弟、私、私の夫、孫たち4人が庭で花火やスイカ割りをする様子をリビングの窓を開けて母と一緒に笑顔で眺めていました。

8/12(土)、姉の旦那さんも来てくれて、また賑やかになりました。

昼ご飯を全員で食べて、弟夫婦は熊本に帰りました。

8/13(日)、咳が治まらないので、新しく処方された漢方の咳止め飲んだけれど、咳は止まらず。

ちなみに、この日の夕飯は、ブリの照り焼き、冷や奴、明太ポテト、焼酎水割り、メロン、こんにゃくの煮物とたくさん食べました。

尿をするときは、ポータブルトイレを使用する父も、大便をするときは自宅のトイレに行っていました。

でもトイレに行ってベッドに戻ると、酸素濃度が85

まで下がって、苦しそうでした。

酸素量は、最大の10リットル/分に上げています。酸素チューブよりも、酸素マスクの方が良いとお医者さまはおっしゃっていましたが、酸素マスクは息苦しく感じるようで、頑なに嫌がってつけませんでした。

ベットの背もたれを少し上げた状態でないと苦しく、足の方も高さを出さないと下の方にずり落ちてしまうので、ベッドの角度も大事でした。

その日の夜、いつもはもう皆も横になっていて大丈夫という父が、今日は近くにいて欲しいと言いました。

嫌な予感があったのだと思います。咳が止まらず、熱も上がってきてガタガタ震えてきたので、もう私たちはこわくてすぐに看護師さんに来てもらうように連絡しました。

来てもらうまでの30〜40分がとても長く感じました。

飛行機で家に帰ったばかりの弟にも連絡しました。弟は、結局トンボ返りをすることになりました。

看護師さんが状況を見てお医者さまにも来ていただけることになりました。

それから、1時間弱。父も「まだか〜まだか〜、時間が経つのが遅く感じる」と言って辛そうでした。

父らしいと思ったのは、「これは、もうどこかで手を打たないと」と言ったことです。

どこまでも主体性の強い父です。

もう痛み止めで処方された薬は飲んでいて、母、姉、私は父の手足をさすったり、近くにいることくらいしかできませんでした。

それから、お医者さまが夜中に診察をして下さり、モルヒネを少しずつ点滴で入れることになりました。

夜中にも関わらず、すぐに来てくださる看護師さんやお医者さまには感謝しかありません。

そして、早朝になってようやく眠りにつくことができました。

8/14(月)、朝一で、薬剤師さんが薬を届けにきてくれました。

医療のプロたちが連携してすぐに対応してくれるのは、とても心強く感じました。

この日は、いくつか処方された経口薬のモルヒネやオプソなどが頼りです。

この日はさすがに食欲はなく、R1ヨーグルトや、栄養バランス飲料などを少し口に含みました。

そして、熊本に飛行機で帰ったばかりの弟夫婦が午後また帰ってきました。

前日の夜、お医者さまを待っている間は、熱もどんどん上がってきて、ガタガタ震えて苦しそうで、最悪を考えたので、父の意識がはっきりしているときに弟夫婦が戻ってこられて本当に良かったと思いました。

その日の夜もとても長く、どんな体勢でも辛そうでした。皆で父の側で体をさすったり頭や脇を冷やしたりしながら過ごし、朝を迎えました。


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長い長い夜が明け、朝方になるとようやく楽な時間になってくるので、皆で喜びました。

カーテンを開け、父が大好きな庭を皆で眺めます。庭の手入れは父がずっとやってきたことです。

明け方父が眠れると私たちも体を休めます。

この日も食欲はなく、栄養バランス飲料などを少し口に含みました。

何か飲む?と聞くと、寝ぼけながら「焼酎の水割り」と言いましたが、さすがにお酒はやめました。

いつも水割りにレモンを入れているので、氷水にレモンを絞って渡すと、「うまい!」と喜んでいました。

この日の夜も辛い時間が長く、お医者さまに翌朝来てもらうようにお願いしました。

8/15(火)朝、私と姉の旦那さんも駆けつけてくれました。

夜中熱で汗もかいたので、弟と体をタオルで拭きました。

アロマオイルをいくつか持っていたので、父に選らんでもらって、お湯にラベンダーのオイルを垂らし、タオルをつけてしぼりました。

父は「最高!」と言って喜んでくれました。

エアコンの温度を下げても、父が「暑い暑い」と言うので皆でうちわで代わる代わる扇ぎました。

孫たちは別室で大人しくしていましたが、一人ずつうちわで仰いで言葉を交わしました。

それから、父は私たち一人ひとりの名前を呼んでよく皆の顔を見ました。

そして、家族に感謝の言葉や、子どもたちがそれぞれ自立して家族をつくって、思い残すことはないと話しました。

その後、お医者さまが来て、モルヒネの量を調整すること。もうしっかり意思疎通ができなくなることなども告げられました。

父も納得して了解しました。

 

つづく

 

 

 

 

 

父の死2-③ 肺がん最後の一ヶ月と自宅での看取り 体験談

前回の記事の続きです。

亡くなる約2週間前

8/4(金)、退院当日。

母と弟夫婦が朝病院へ行き、退院の支度をしました。

 

そして、父と母と弟夫婦は午前中に自宅に到着し、担当医、訪問看護師、ケアマネジャーの訪問がありました。

私と姉は仕事を終えてから、夕飯時に合流。

まずは、皆が揃って父に会えたことがとても嬉しかったし、父もとても喜んでいました。

この一週間、父が病院で急変したらどうしようかと不安でしたし、在宅看護のことも分からず、どのように準備が進んで行くのかも分からなかったので、やっと帰って来られたね、という思いでした。

病院では、食事は半分くらい残していたとのことでしたが、自宅では好きなものが食べられるので、以前のようにとはいきませんが、かなり量は食べられていました。

食後には皆で退院祝いのケーキを食べて、家族写真を撮りました。

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写真が好きな両親なので、自宅の壁にはいつも家族写真が飾られています。

さぁ、自宅看護スタートです。

酸素吸入機や、酸素を鼻から入れるチューブや、外出用の酸素ボンベの取り扱いや、緊急時の連絡先、薬のことなどを説明を受けた弟から教わりました。

訪問看護師さんからは、何かあったら、訪問看護ステーションに連絡するように言われました。救急車を呼んではいけません。

救急車を呼んだ場合、心肺蘇生など父の希望とは異なる処置をされたり、最期は病院で亡くなることも考えられます。

私たち家族は素人集団です。

どのように病状が進行するのかも分からなかったので心配でしたが、自分にできることをやるしかないという気持ちでした。

その夜の心配事は、酸素を鼻から入れるチューブが外れてしまわないかということでした。

そのため、リビングに布団を並べて皆で寝ることにしました。

介護ベットのあるリビングにポータブルトイレもありますが、父は歩けるので、家のトイレに行ってしまいます。

酸素吸入機から鼻まで繋がっているチューブはトイレまで行けるくらいの長さが確保されていますが、どこかにひっかかったり折れ曲がったりすると十分な酸素が届かなくなってしまいます。

以前から、前立腺肥大症で頻尿になっていたので、父は夜に頻繁に起きます。

その度にこちらも大丈夫か様子を見たりして、ぐっすりは寝られません。

朝になり、無事に夜を越せたことにホッとすると同時に、初日にして、当番制にしないと身体が持たないと察しました。

8/5(土)、姉家族と私の家族も父に会いに集合しました。

総勢12人。父の希望で、12人で記念写真を撮り、お昼ご飯を一緒に食べました。

父は何より家族で集まることが大好きで、毎年夏は皆で旅行に行っていました。

皆も家族で集まる機会を大切にしてきたので、毎年全員集合できていました。

そして、私の子どもと姉の子どもはそれぞれ旦那さんに一度自宅に連れて帰ってもらい、月曜日から、子どもたちも実家に泊まることになりました。

子どもたちがいると、逆に騒がしくて迷惑かと悩みましたが、子どもたちも状況は分かっているようで普段とは違いました。

両親も子どもたちを連れてきて大丈夫とのことだったので、部屋を分けて生活することにしました。

しらばく、父のことで頭がいっぱいで、子どもたちのケアができていなかったのですが、夫がお父さんのことを最優先でいいよと言ってくれていたのが救いでした。

8/6(日)訪問看護師さんからは、今のうちに会いたい人には来てもらった方が良いと言われました。

そして、ご家族も状況をよく理解していますよね?というような感じで諭されました。

自宅に帰ってきてから、毎食父の好きなものを食べて、病院にいた頃よりは元気があるようにも見えました。

でも、いつガクッときてもおかしくない状況と看護師さんはおっしゃいます。

とても助かったことは、1日おきに訪問看護師さんが父をシャワーに入れるのを介助してくれることです。

午前中の比較的体調が良いときに、訪問看護師さんと弟で父を洗いました。

お風呂場に訪問看護師さんが持ってきてくださった椅子を置いて、父は座ってシャワーに入ることができました。

この日は、3交代で起きて父の看護をしようということにしました。

父は自分一人で大丈夫。皆は自分の部屋で寝なさいと言い張りましたが、こちらも譲りません。

8/7月(月)〜8/9(水)、私は早朝から仕事をしたり、早くに出社したり夜に仕事をしたりして、なんとか仕事をやりくりしました。

そして、比較的父が元気のある時間に、姉、私、弟の配偶者の両親が面会に来てくださりました。

父は食事の時間以外は基本的にベットに横になっています。

それでも、朝は髭を剃りたいと言って、ひげ剃りセットや鏡をベットへ持って行くと、きちんと髭をそり、髪を整えて、お気に入りのTシャツを着ました。

お友達からもらったという、「暇人」と小さく印字されたパッと見はおしゃれなTシャツやボーダーのポロシャツがお気に入りでした。

ベットで「暇人」Tシャツは皆で笑いました。

8/8(火)の朝、自宅看護を始めた8/4以降で1番体調が良く、朝、リビングから庭に少し出ることができました。短い時間でしたが、早朝で涼しかったです。庭の花や木を気分良く眺めて、庭で家族写真を撮りました。

それが最後の家族写真となりました。

 

その日は、シャワー浴がなかったので、温かいお湯にアロマオイルを垂らし、タオルに含ませて手足を拭きました。

私の義理母が老人ホームで働いていて、教えて下さったことです。

とても気持ちが良さそうだったので、アロマオイルを持って行って良かったです。

食事は、毎食、少量ですが好きなものを食べました。そして夕飯の後はハーゲンダッツを食べます。

看護師さんも、アイスは食べやすくカロリーを取れるので良いですよとおっしゃっていました。

夕方から夜中はしんどいようで、約1時間ごとには起き上がっては、ベットに腰掛けて頭をもたげているような感じで辛そうでした。

 

つづく

父の死2-② 肺がん最後の一ヶ月と自宅での看取り 体験談

前回の記事の続きです。

亡くなる約3週間前

7/28(金)、救急車で運ばれた病院から、父が希望して通院していた帯津三敬病院へ転院しました。

病院では、父が敬愛する帯津先生が父の個室に会いに来てくれ、父は感激していました。


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奇跡④

熊本に住んでいる弟が飛行機の予約を取ったときには何も決まっていなかったのに、転院する前日に弟夫婦が埼玉に帰ってきてくれていたこと。そして、弟は転院翌日に熊本に帰りました。

荷物を運んだり主治医の話を聞いたり、母1人ではなく弟も付き添えたことは、母にとってとても心強かったと思います。

そして、転院後帯津三敬病院の主治医からも、「お盆を超えられるかどうか分かりません。」と宣告されました。

さて、帯津三敬病院では、面会が1日に1組(2名まで、親族のみ)で、15分までというルールでした。

父の友人など、面会に来たい人もたくさんいましたが、親族しか会えません。

弟夫婦は遠方から来ていますし、面会は優先です。次はいつまた会えるか分からないので、15分は短すぎました。

実家ではいくらでも話せたのに、15分しか話せないなんて、とても辛いです。

そして、まだ会っていない父の兄妹も会いたがっているので、あっと言う間に父の面会予定は埋まりました。父は日程調整や知人とのやり取りでボケてる暇はないよと言っていました。

父は自宅に帰ることを希望しており、お医者さまからも自宅の方が父にとっては幸せですと薦められました。

でも、初めてのことで、当時は先々どうなるのか全く見えませんでした。

病院では、転院した日7/28(金)に、母がソーシャルワーカーから在宅看護の準備について説明を受けました。

その日、家族で今後のことや体制を整えるため、実家に母、姉、私、弟夫婦が集まりました。

ソーシャルワーカーから説明を受けた母からは、まだ、いつから在宅看護ができるのかは見えないけれど、まず、自宅に介護ベットやポータブルトイレ、酸素ボンベなどを置いて準備をすることを聞きました。

7/23(日)の時点で、余命は2週間からもって1ヶ月だと言われていたので、父が望む自宅看護に早く切り替えたいという焦る思いがありましたが、7/28(金)の時点で私たちにできることは、介護ベットをどこに置くか決めることと、誰がいつ看護ができるか予定を立てることくらいでした。

先々どうなるか分からないけれど、5〜6日以内に在宅になるのは難しいだろうと読み、在宅看護になるまでは、それぞれ仕事を頑張ろう、それ以後はなるべく皆調整できるように準備しておこうということになりました。

ざっくりと、翌週の週末〜一週間は最低2人はいるように予定を組みました。

弟は飛行機のチケットを取らないと行けないので、また父に会えるだろうかと悩んでいました。

でも、もう余命が短いと宣告されているのだから、「父が危篤です。」と言って帰ってきな!と言うと、職場に思いを伝え、長期休暇を取ることができました。

在宅看護になるまで、父に会えないとメソメソしている場合じゃありません。面会予定は埋まっていますし、先々在宅看護がしっかりできるように、猛烈に仕事をしました。

その頃の父は、食欲がなくなってきていました。39℃近く熱が出ることもありました。

酸素をマスクや鼻へのチューブで投与していましたが、酸素量は4リットル/分とのことでした。

8/1(火)、在宅看護について、ぐんと話が進みました。8/2(水)にケアマネジャーから、自宅に業者さんが介護ベットとポータブルトイレを設置しにきてくれると話がありました。

テキパキとしたケアマネジャーさんで本当に助かりました。

あとは、病院で介護タクシーの手配ができればすぐに在宅看護に移れるとのこと。

また、訪問看護ステーションで、訪問医や看護師さんの手配をしてくれると言います。

8/1(火)、父の酸素量は5リットル/分。朝は平熱で気分はまぁまぁ。午後になると熱が上がってきてだるくなってくるとのこと。痰は結構出る。咳は薬で抑えられているとのことでした。

8/2(水)、一度熊本に帰っていた弟夫婦が帰省。理解のある職場に感謝です。そして、一緒に来てくれる奥さんには感謝しきれません。

その日、自宅には介護ベットとポータブルトイレが設置されました。

介護ベットは、リビングの庭がよく見える場所に設置。父は庭の手入れをずっとしていたので、きれいな庭が見える場所にベットを配置したのは後々、大正解だと思いました。

そして、この日に、8/4(金)に退院して在宅看護に移れることが決まりました。

我が家の場合は、在宅看護を希望してから実際に在宅看護になるまで一週間でした。

奇跡⑤

またまた、弟夫婦が丁度よいタイミングで戻ってきてくれました。飛行機を予約する時点では、先が読めなかったので、あんまり早く帰ってきても父がまだ自宅にいないかもしれないし、やることもあまりないかもなんて皆で言っていましたが、退院日の前日、前々日、当日はやることがたくさんあったので、結果的に早めに弟夫婦が帰ってきてくれたので、なんとかなりました。

8/3(木)、 酸素吸入機を業者さんが自宅に持ち込み。その後、訪問看護ステーションの責任者が訪問されて契約。

ワイヤレスチャイムや尿瓶など必要なものを購入するなど、母と弟夫婦が対応してくれました。

父は呼吸が苦しくなり、酸素量を5から6L/分に上げてもらっていました。血中酸素濃度が88になると苦しくなり93を超えると楽になるとのこと。入院してから2週間足らずで、体重は70kgだったのが64kgに減少していました。

後半は特に食欲がなかったようで、食事は半分くらいは残していたとのことです。

 

 

次につづく。

 

父の死2-① 肺がん最後の一ヶ月と自宅での看取り 体験談

8月17日(木)に父が亡くなってから、1ヶ月間が経ちました。

まだ、父はどこかにいるような気がしてしまいます。

でも、母に会いに休みに実家に帰るといつも明るく出迎えてくれる父がいない現実に直面して涙が止まりません。

父が余命宣告を受けてからの約1ヶ月は、毎日家族皆が必死で、頭は父のことでいっぱいで、毎日感情が揺さぶられたり、寝不足が続いたりと怒涛の日々でした。

最後は自宅で家族全員に囲まれて亡くなりました。

同じ肺がんでも、その人によって進行具合は様々かと思いますが、脳裏に焼き付いている父と家族の最後の日々や奇跡を残しておきたいと思います。

肺がんの疑い

父は、約1年半前に肺に影があると言われてから、再検査は頑なに拒んでいました。

その頃のことを書いたブログ

何冊も関連する本を読み、帯津先生の考え方に深く共感した父は、直筆の手紙を出して川越の帯津三敬病院にお世話になることになりました。

奇跡①

父が希望する先生に見てもらえることになったこと。

帯津三敬病院に数ヶ月に1度通いながら、父は生活習慣の改善に取り組みながら、やりたいことを大事にして生活していました。

亡くなる約一ヶ月前


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それから、しばらく経ち、7/21(土)は父の75歳の誕生日。母とケーキでお祝いしたそうです。

その翌日の7/22(土)の朝、母から、「お父さんが背中の痛みを訴えてる。不安だから来てほしい」と私にラインが入りました。

我が家は実家まで車で30〜40分ほど。

その日の夕方に実家に帰ると、いつもと父の様子が全く違いました。

以前から痰が出やすくはなっていましたが、本当に数分に1回は痰を出しているような感じで、息苦しくて長くおしゃべりができません。

それに加え、咳をすると背中が痛むと言います。

私はすぐに姉に電話をして、父の様子を伝えました。一週間ほど前には、最近引っ越した姉の家を父母で訪れて孫たちにも会い、お酒もたくさん飲んで楽しんだそうなので、姉はとても驚いていました。

姉は実家まで1時間と少しかかりますが、すぐに来てくれると言います。

父は日頃から19:00くらいになると寝てしまうくらい早寝なので、姉が来る頃には寝てるかもしれないと伝えましたが、様子を見に行くと来てくれました。

姉が来た頃には父は寝られているようでしたが、母が不安になっているので、3人でいることで少しは気が紛れたようです。

私と姉は一泊し、7/23(日)朝、父は昨晩に比べると大分調子は良さそうだったので、少し安心しました。

翌日月曜日は丁度通院している帯津三敬病院の予約をしている日でした。

父は明日は病院だしもう大丈夫だから、家に戻って大丈夫だよと私たちを帰らせました。

弟は熊本に住んでいて、すぐに来られる距離ではないし、連絡するほど体調が悪そうではないかな?と思いつつも、昨晩のことを思い出してやはり連絡することにしました。

経緯を弟に伝えると、すぐに弟は飛行機のチケットを取りました。次の休みに帰ると言います。

居ても立っても居られなかったようです。

しかし、夕方になるとまた体調が悪くなり、その7/23(日)の晩、救急車で運ばれることになりました。

奇跡②

入院したのは75歳になった後。医療費負担が1割になるのを待っていたかのよう。

そして運ばれた病院で、父は末期の肺癌で余命は2週間〜もって1ヶ月だと宣告されました。

そんなに余命が短いとはショックで頭が真っ白になりました。

7/24(月)は仕事だったので、頭の中は整理できていませんでしたが、上司に報告し、可能な限り病院へ行きたいことを伝えました。

ありがたいことに、とても理解のある上司で、勤務時間やリモートワークなど、働き方は私に任せるからなるべく会いに行ってあげなさいとおっしゃってくださりました。 

入院した7/24(月)は、仕事を持ち帰り、私と夫と息子と娘で夕方お見舞いに行きました。

すると、父は酸素マスクと点滴をつけ、椅子に座っていました。

父は、「弟に伝えたら、余命1ヶ月を1年と勘違いしていて、1ヶ月と分かってびっくりしていたよ、ワッハッハ」とあっけらかんとしています。

そして、「ノンアルコールビールをこっそり持ってきてほしい!病院食は味がなくて絶えられない!明太子や葉唐辛子を持ってきてくれ!」と言って、面会中に、ノンアルコールとつまみでこっそり乾杯をすると、とても嬉しそうでした。

酸素マスクをつけているからか、苦しそうな様子はなく、いつもの明るく元気な父のようでした。

余計に、余命がそんな間近に迫っているとは信じられませんでした。 

その頃の血中酸素濃度は酸素マスクをつけた状態で92〜94%くらいだったと思います。

トイレに行ったり動くと下がります。

運ばれた病院は面会が13時から18時まで、20分2名ずつというルールでした。

父の兄妹や姉家族やうちの家族などが面会に行きました。

でも、夕方になると父が疲れてきてしまうので、会えるのは昼過ぎにほんの少しだけです。

リモートワークにさせてもらったり、早く出勤したりして、少しでも顔が見たくて毎日会いに行きました。

奇跡③

子どもたちは7/22(土)から夏休み。学校があるときは、子どもたちの学校の支度も見ないといけないので、早く出勤はできません。

夏休みに入った直後という奇跡的なタイミングで、仕事の調整ができました。姉も子どもが2人いるので同じです。

しかし、7/24(月)の元気は日に日になくなりました。

初日は椅子に座っていましたが、翌日はベットの背もたれを上げてしゃべり、その次の日には寝たままといった感じでした。

夕方頃から熱が出始め、抗生剤でなんとか熱が落ち着くような感じでした。

点滴で薬を入れてもらっているので、咳はそれほど出ていませんでしたが、だんだんと痩せていきました。

20分の面会はあっと言う間で、毎日毎日が貴重な時間で、感謝の気持ちを伝えきれません。

熊本に住んでいる弟夫婦は7/27(木)の夜中に実家に帰省予定。早く会いたいのに、会えない弟は辛かったはずです。

でも、弟に電話したときに、すぐ飛行機のチケットを取ってくれて本当に良かった。

 

長くなったので次につづく、、、

 

 

 

 

 

父の死1 死生観

8月17 日に父が亡くなりました。

75歳でした。

本当に大好きな父でした。

父は家族を太陽のようにいつも照らしてくれました。子どもたちのことはもちろん、私や姉や弟の配偶者や孫たち皆を照らしてくれた。

父の考え方や生き方を尊敬していたし、父のようになりたいと思っています。

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明るく優しい父はとっても意志が強い部分もありました。

こうと思ったら突き進むのみです。

周りが何を言っても揺らぎません。

約1年半前、前立腺肥大症のため病院でレントゲン写真を撮った際に肺に影があるとお医者さまから言われました。

父はしばらく周りには黙っていました。

その後、父は母に伝え、子どもたちには心配をかけるから言わなくていいと言っていたようです。

でも、母は一人では抱えきれずすぐ姉、私、弟に伝えました。

そのとき、すぐにでも再検査を受けてほしいと思い、父と話をするも、再検査は受けないと頑なでした。

こちらの方が不安で不安で毎日泣いていました。

通勤中など、もしものことを考えると涙がボロボロ流れました。

でも、父は既に何冊も肺がんに関する本を読んでいて、考え抜いた結果、再検査はしないと決めていました。

父ははっきりと死生観を持っていました。

以前から延命治療は絶対にしたくない、人工的に鼻や胃から栄養を補給されて生き長らえるのは絶対に嫌だと言っていました。

東洋医学の考え方で免疫力を高められるよう、生活習慣の改善には取り組んでいました。

その上で、70年以上生きたのだから、最後まで生きたいように生きて病気で死ぬならそれが天寿だと言っていました。

また、最後は自宅で死にたいという希望もありました。

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それから時は流れ、私たち家族は、父を説得するのではなく、父の人生父が望むように生きられるように、サポートしていきたいという考えに変化していきました。

周りには、「こんなに元気で何も症状がないのだから、肺がんかどうかだって分からないよ」と言いつつも、父はやりたいことリストをしっかりつくっていました。

母とあちこちへ旅行に行ったり、友達と大好きなお酒を飲んだり、カラオケをしたり。

家族全員で旅行もした。

熊本に住んでいる弟夫婦のところへも、一緒に行こうと誘って行けて本当に良かった。

自分に置き換えて考えると、70歳を過ぎたからといってそんなに達観して死を受け入れられるとは思いません。

でも、現時点で言えることは、悔いのないように今を一生懸命生きようということ。

 

天国から地獄へ 

もう9月も半ばになるのか。

今年の夏は、一生忘れられない夏となりました。


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7月初旬に夏休みを取り、家族でタイに行ってきました。

家族での海外旅行は初めて。

滅多にないことなので、それはもう目一杯楽しんできました。

 

帰国後、お金もたくさん使ってしまったし、よし、仕事を頑張ろう!

と思っていた矢先、父が末期の肺癌で余命宣告を受けました。

それから、約1ヶ月後の8月17日に父は亡くなりました。

大好きな父はあっと言う間に逝ってしまった。

だけど、最後の1ヶ月間は家族でこれ以上ないくらい濃密な時間を過ごしたようにも思います。

たくさんの奇跡もあった。

まだまだ、父の死を受け入れられず、ふとしたときに父を思い出しては涙が出ます。

なかなか気力も戻らず、地に足がついていないような感覚です。

でも、私も親です。

溜まりに溜まった仕事や育児や家事は待ったなし。

こんなフワフワしたままではいけないと思い、以前の生活のルーティンを少しずつ取り戻していくことを意識しだしました。

 

夫婦の役割 自分の固定観念を捨てて夫に頼ってみる

わが家は、夫と小6の息子と小4の娘の4人家族です。

私自身は7時間勤務、通勤片道約1時間半の職場で働いています。

子ども2人が大分自分たちで色んなことができるようになってきて、前より共働きもゆとりができてきたなと思っていました。

数ヶ月前までは!

今年の3月からは、マネージャーに昇進+人が1人抜けてしまい仕事はとっても忙しくなりました。

時短勤務ですが、7時間ぴったりで帰れることはほぼくなり、7.5時間くらいは平均して働いているような感じ。たまに持帰り仕事もあります。

家に着くのは19時頃。

そうなると、夕飯の時間が遅くなってしまうので、子どもたちは夕飯前に色々家にあるものを食べてしまうのですが、しょうがない。

ただ、仕事は忙しくなった分、決められることが増えたり、意見を求められることも増えて楽しんでいる自分もいます。

寝るまでの時間は、勉強もしたいし、子どもたちと遊ぶ時間もほしい。

ご飯は自分なりにですが、ちゃんと作りたい。

ヨガや筋トレもしたい。

限られた時間を大切に過ごしたい。

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これはおはじきを使った遊び。

娘に教えてもらった遊びです。

上の4つの丸が相手のエリアで、下の4つの丸が自分のエリア。

自分のエリアの4つの丸のどこかを選んで、右へおはじきを1つずつずらします。

そして、自分のエリアにおはじきが先になくなった方が勝ち。

おはじきと紙さえあれば気軽にできる遊びです。

夫婦の役割分担について


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わが家は夫と明確に家事を分けていません。

まぁ、ほとんどは私がやっています。

週末は一週間分の買い出しをしますが、荷物を持ってもらったり、家族のスニーカーや子どもたちの上履きを洗うのはなんとなく夫がやる流れはあります。

他には、週末に一緒にキッチンに立ったりするくらいでしょうか。

あと何かやっていたかな。

車の運転や洗車などは基本的に夫がやっています。

あと私が行きたい場所に連れて行ってくれます。家事ではないですね、、

子どもたちには、ご飯を炊いてもらったり、ゴミ捨てや牛乳パックを切ったりお皿をキッチンに下げてもらったりはしています。

夫は帰りが遅いので、早く帰ってくる私が基本的に家事を担うことは不満に思っていません。

でも、共働きで大変なのは、家事だけじゃないですよね。

子どもの習い事の調整や、病院、学校の集金や、役員、子どもが小さい頃は保育園や学童保育の送迎など。

子どもが小さいうちは、なんだか私がやらなければ!という気持ちが強く、ほぼ1人でやってきてしまいました。

今思うと、私自身が子どものことは母親がやるべきという固定観念が強かったですし、もっと気軽に赤ちゃんの頃から色々やってもらえば良かった。

そんな私でも、子どもたちが小学生になる頃から、

少しずつ少しずつ、夫に頼れるようになってきました。遅いですね〜〜

人に頼るって案外難しい。

でも、1回頼んでしまうと慣れていくものですね。 

 

平日の家事は良いとして、週末は色々と頼ります。

私が土曜出勤の日には、子どもの病院や習い事の振替えや必要なものの買い出しなど詰め込んで頼んだりしちゃいます(笑)

夫は活動的だし体力があるので結構大丈夫そうです。しめしめ😏

あと週末は、一人であえて家事をやりきろうとしない。

やろうと思えば一人でできるけれど、自分がやりたいこともこれからは大切にしようと思います。

以前、疲れすぎて、色々家事を頼んだら、「今日はママが機嫌が悪い」とか言うので、カチンときて、「いつもやっていることを私がこんなに頼むってことは、本当に疲れてて、本当に助けて欲しいときなんだよ!

助けてよ!」

と叫びました。

それから、私が頼むとすぐやってくれるようになりました😊

言わないと伝わらないものですね。

普段、言い合ったりすることはほぼないのですが、たまには心の叫びをちゃんとぶつけることも必要ですね。

そして、今年前進したのは、夏休みに私だけが仕事の調整をするのではなく、夫にも仕事の調整をしてもらうこと!

長い夏休み。もう子どもたちは6年生と4年生で学童保育に行っていないのですが、できれば、ママかパパが家にいる日を増やしたいと思っています。

去年は夏休みを分散して取ったり、テレワークをしたり、週末出勤して平日に休んだり、少し実家に頼んだりしました。

でも、新しく入った部下は入社数年なので、手取り足取り教える必要がありそうです。

そのため、そんな家庭と仕事の調整はできなくなりました。

1人ではどうにもできないので、夫にも状況を理解してもらって、夏休みは夫にもテレワークできる日は頼むことにしました。

すると、やるしかないね。とのこと。

なんだ、前から頼んでれいれば良かったんだ。。


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うちの会社はありがたいことに下の子どもが小学生のうちは時短勤務が使えます。

あと数年したら、8時間勤務になるので、少しずつ少しずつ夫に頼って行こうと思います。

人それぞれ限界は違うし、夫婦の働き方も違う。

わが家なりの丁度良いバランスを模索していきたいところ。

一気に生活を変えると負担が大きいので、私は少しずつ少しずつ変化させていくやり方をしてきました。

この1年は踏ん張り時。

子どもたちが保育園時代を乗り切ったので、乗り切れるはず!

部下を育てて、来年の夏はテレワークをもっとできる環境をつくりたいと思います。