前回記事の続きです。
8/15(火)、医師から説明を受け、父も承諾してから、モルヒネの量を増やしました。
声は聞こえるけれど、意思疎通はできなくなるとのことでした。
そして、父は眠りました。
それから、看護師さんに教えてもらい、オムツにしました。
格好悪いのは大嫌いな父なので、意識がある間はオムツにならなくて良かった。
ここから先も、どのように症状が進行するのか予測はできませんでした。
変化があったことは、口が開き、自力で出していた痰を自分で出せなくなるので、口の中に泡のような感じでたまったり、鼻から数秒おきに泡状の鼻水が出るようになりました。
鼻水を拭くのに、一人つきっきりになりました。
保湿ティッシュを使って拭いても鼻の下が赤くなってくるので、ティッシュを切って小さく畳んで鼻の下に置いて交換する方法に切り替えました。
これはうまくいきました。
そして看護している私たちも体を休め、朝、仕事前に夫が菓子パンなどを届けにきてくれたので、少し胃袋に入れました。
食事づくりなどもする気になれなかったのでとても助かりました。
お医者さまからは、眠りが浅くなって父が辛そうであれば、緊急用のモルヒネ追加のボタンを押すように言われていました。
父が眠って数時間後、思っていたよりも早く眠りが浅くなってきたのか、手をバタつかせました。
酸素マスクのチューブを外してしまうと困るので、父の手を強く握りました。
かなり強い力で手を動かそうとするので、苦しい?と聞くと頷いたので、モルヒネの追加ボタンを押しました。
でも、こちらの問いかけに反応があったのはそれが最後でした。
父はここにいるのに、もうここにいるのは父ではないような感じがして何とも言えない気持ちでした。
それから、また眠りが深くなり1時間半くらいするとまた手を動かすという状態が1日続きました。
相変わらず、鼻水も出続けているので、夜中は一人父のベットの横に交代で付き添いました。
夜中も一時間半くらいすると、手を動かそうとしました。
父の介護用ベットはリビングに置いていましたが、皆でリビングに寝ていたので、父が動いたら誰かを起こしてサポートしてもらいます。
1人ではなかなか両手を押さえられません。
父に苦しさを尋ねてももう反応はないので、どの程度苦しそうだったら、モルヒネを追加した方が良いのかも分かりませんでしたが、数回は使用したと思います。
8/16(水)、前日は手を力強く動かしていましたが、少し手を持ち上げるだけになってきました。
昼を過ぎると、鼻水もあまりでなくなってきました。
口が乾いている感じがしたので、最後に父が美味いと口にしたレモン水を少し口に湿らせました。
それから、また、皆で温かいタオルで体を拭きました。
夜、夫は仕事から帰ってきて、また付き添ってくれました。
父の周りに椅子を並べて皆で見守ります。
あまり眠れない日々が続いていましたが、徹夜覚悟でした。
家族で懐かしい話をしたりして過ごしました。きっと父も聞いていたはずです。
夜中には、だんだん体が冷たくなってきてしまって、腕や足を皆でさすりました。
一度自宅に帰っていた姉の旦那さんと子どもたちは始発でかけつけてくれることになりました。
父には、「もうすぐ全員集合するよ、頑張って」と声をかけました。
8/17(木)
それから、朝になり姉の旦那さんや子どもたちも駆けつけ、家族全員が父のベットの周りを囲いました。
父は、体が冷たくなりながらも、全員が集まるのを待っていてくれたように感じました。
呼吸の間隔が少しずつ空いていきました。
父に声が届くようにそれぞれが感謝の気持ちを伝えました。
そして父は最後の呼吸をすると、目からは涙がこぼれました。
こんな言い方は不謹慎かもしれませんが、完璧な最後に感じられ、皆で拍手をしました。
最期まで格好良かった。
家族が一番だと言って、家族との時間を大切にしてくれた父の最期は、家族全員に囲まれたあたたかい時間でした。
余命を宣告されたときや、最後の数日は本当に辛かったと思いますが、毅然としていました。
孫たちもじーじの変化を間近で見て、亡くなるところに立ち会いました。
父は間近で人の死に触れることは、子どもたちにとっても貴重な経験になるはずと言っていました。
父の、最後は自宅が良いという希望を叶えられたことは本当に良かった。
でも、一人だったら絶対に無理でした。
奇跡的に夏休みで、子どもたちの学校の心配がなかったことや、長患いをしなかったことや、姉弟の配偶者も協力的だったことなど色んなことが重なって叶えられたと思います。
仕事を休ませてもらったり、夫もたくさん協力してくれたり、家族が皆忙しい中協力して乗り越えられたことには本当に感謝です。
そして、父が最期まで格好良い生き様を皆に見せてくれたことは一生忘れません。